江の川の氾濫を振り返って③ 災害ボランティアに参加して
カテゴリー: 暮らし
2018年7月の西日本豪雨から1年以上経ったものの、災害の爪痕はあちこちに残り、今も
多くの方が不自由な生活を強いられておられます。私自身、昭和47年、58年の水害に遭ったこともあり、水が引いた後の片付け、避難生活の大変さなど他人事とは思えません。イベント等が次々に中止され、川本町では、初めての「災害ボランティアセンター」が設置され無線で募集の呼びかけがありました。いてもたってもいられないという気持ちで参加したボランティア活動の様子を綴ってみたいと思います。
断水~給水車からのお水、ありがとう!
水が引くと同時に心配になるのが「水不足」です。今回も7月7日17時から8日21時まで、水源地の施設が浸水により町内約700世帯が断水しました。ライフラインで何が大事って、やはり「水」でしょう。事前に無線放送があったので、バケツやペットボトルに水を貯めておきましたが、十分とは言えません。道が寸断されている中、出雲市や浜田市からの救援で給水車に1日2回お世話になりました。一人暮らしのご高齢の方は、パックの水を運ぶのも大変です。そこで、どのくらい必要か聞いてまわり、ペットボトルに入れて届けることにしました。わずか1日の断水でしたが、捻れば出る水のありがたさをしみじみ感じました。
避難所にて折り紙で交流深まる
私の住んでいる地区では、土砂崩れの危険から、自主的に避難された方が9名おられました。消防団員さん達は不眠不休で集会所の周辺で待機見守りをしてくださっていました。避難されていたのは、ベトナムからの技能実習生で、慣れない土地での災害にとても不安だったと思います。自治会で、盆踊りやBBQなどの交流を通じて顔見知りでしたので、彼女達の不安をとりのぞきたいと願い、早朝におにぎりを届けました。隣の地区からも同じ職場の男性が話し相手に来てくだり、緊張の避難生活の中にもほっこりとした空気が漂っていました。折り紙で鶴を折ったりベトナム語を教えてもらったりし、親交が深まったのがとても嬉しいことでした。
何ができる?ボランティア参加初日
私がボランティアに参加したのは水が引いてから3日目で、要請があった尾原地区のお宅へ15人位のチームで伺いました。「女性の私に何ができる?かえって足でまといになり迷惑となるのではないか?」参加する前は随分迷ったのですが、いざ現場で惨状を目の当たりにすると、少しでもなんとかしなければという気持ちにかき立てられ、スコップを持つ手に力が入りました。水を含んだ泥の重いこと、ひたすらバケツリレーで泥を運びだすのですが、先が見えない作業と暑さで心が折れそうでした。それでも少しずつ目の前の泥が少なくなっていくのを見ると元気が出てきます。「休憩~~!」「さぁ、次はここを片付けるで」と、作業リーダーが声をかけ、「あ、うん」の呼吸で段取りや役割分担ができ連帯感が生まれてきました。
心強い助っ人
昼休憩は、マイクロバスで、災害ボランティアセンターとなった「すこやかセンター」に戻りました。ボランティア活動を通じて、必要な物、あると便利な物に色々気づかされましたが、その一つが、座席を泥の汚れから守る、ビニールシート、バスタオルでした。また、水分を含んだ土には、布の軍手よりしっかりとしたゴム手袋が重宝しました。
2日目は、松江から県職員さんや消防学校の生徒さん達が、バスで駆けつけてくださいました。普段訓練で鍛えられておられるのでしょう、号令とともに駆け足でキビキビ作業される姿に感動をおぼえました。片付けのスピードがあがり、被災された方にも笑顔がみられ、疲れも吹き飛ぶようでした。
そして記録的な猛暑の中、泥との闘いは続き、姉妹縁組都市坂町へのボランティアも始まりました。川本町から職員さんが毎日2人以上、町内のボランティアさんと1カ月以上通い続けられました。また島根中央高校の野球部の生徒さんも現地で大活躍でした。その時の様子は、また機会があれば振り返ってみたいと思いますが、災害シリーズは、ここで一旦終了し、次回からは、『江の川の恵み・楽しみ』について紹介していきます。
ライター BAKU
“江の川の氾濫を振り返って③ 災害ボランティアに参加して”への 1 件のコメント
ライラックさんより:
こんばんは。北海道のライラックに魅せられ,自己のニックネームにしました。宜しくお願い致します。川本町の災害について、詳しいご解説を有難うございました。自分自身も、過去、何度も辛い目に遭遇しているので、共感することばかりでした。よくその現場に駆け付け、頑張っていてくださいますね。川本町のこと、自分が高齢化していることから、理解協力することも少なく、こうして、お知らせを目にすると、また、勇気や安堵、協力のあり方など、学ばせて戴くことが出来ます。今後ともご指導を宜しくお願い申しあげます。