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江の川の氾濫を振り返って ①昭和47年災害の体験談

「ウ~~ウ~~~!!浜原ダムから水が出ます!」1分の長さで4回鳴るサイレンは、江の川沿岸に住む私たちにとって、別段驚く出来事ではありません。これは、浜原ダム放流に関するお知らせ看板です。防災無線から流されるダムからの水量(毎秒1000トンになりました等)を聞いて、大体どのくらいの水嵩が増すのか、体得しているのが江川周辺の住民ではないでしょうか?年中行事のように繰り返される江の川の氾濫ですが、私が中学1年生の夏、おそらく今まで体験した災害で一番忘れられない「昭和47年災害」ついて書いてみたいと思います。

【川本町多田停留所横】

 

昭和47年水害って?

【町内あちこちにある47年水害の水深を示すプレート】

 

7月9日から断続的に激しい雨が降り、9日~14日の川本町の総雨量は541㎜、県内のほとんどの市町村で500㎜以上の雨量があり、12日の朝7時には江川の水位が13.98m(警戒水位6m)にまで達したのです。「昭和47年7月豪雨災害誌」(中国地方建設局編集・出版)には、中国地方の被害の実態が詳しく記録されていますが、弓市はじめ、川本町は壊滅状態、死者1名、重軽傷13名の大惨事でした。学校は避難所となり、終業式もしないまま夏休みに突入したのでした。我が家は1階の鴨居まで浸かりましたが、祖母はじめ家族全員無事でした。

 

忘れられないおにぎりの味

 

自宅は、祖式川(江川の支流)沿いにありました。9日から降り続いた雨量は500㎜を超え浜原ダムは危険な状態となり、一旦は引いていた水位が12日の早朝、一気に水面が上がりました。2階に寝ていた私が、トイレに行こうと階段を降りようとすると、階段は水に浸かっていました。慌てて外を見ると、一面茶色の湖に囲まれていたのです。

「寝耳に水!!」不安な時間が続きました。お昼過ぎ、釣舟の「かんこ舟」で近所のおじさんが、炊き出しのおにぎりを1軒1軒配ってくださいました。2階の屋根をつたって届けられたそのおにぎりの美味しかったこと!!

たった一食抜いただけでしたが、雨の中、舟で届けられたおにぎりの味、ありがたさは一生忘れられないものとなりました。

 

重いピアノが浮いた!

【昭和47年7月12日 引き始めた水~自宅2階から撮影】

 

私が小学3年生の時、今は亡き父が買ってくれたアップライトのピアノがありました。我が家にとっては、一番高価で大切な宝物。2階で寝ている時も浸かるかな、大丈夫かな?と心配していましたが、急な増水と女・子供だけの中(役場職員だった父は、庁舎に待機)、なす術もありませんでした。あの5人掛かりでやっと運べる重いピアノが、泥水にプカプカと浮かんだのでしょう。無残にも玄関の土間に泥まみれになって叩きつけられ横倒しになっていました。その光景は、今でも脳裏に焼き付いています。タンスも畳も何もかもが流される、その水の威力、恐怖をまざまざと見せつけられました。

 

水害後は「水不足」

「水が出る」「水が引く」その後の状態はどうなるのでしょうか、そう、なんと「水不足」がやってくるのです。水源がやられ、水道はストップです。泥だらけになった住宅を水で洗い流すこともできず、不衛生な環境が続きました。炊事もままならず、浸水しなかった近所のお宅が避難所となりました。山水での生活がしばらく続きました。「水害」=「水が不足する」を教訓に、私は、雨が続き災害になりそうな時は、即、お風呂に水をため、1升のご飯を炊くように心がけています。

47年豪雨に次ぐ昨年7月の西日本豪雨では、再び「水の大切さ」を身にしみて感じたのでした。その時の様子を次回は紹介したいと思います。

 

ライター BAKU

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